quiverの日記

アニメ、漫画、音楽

日本語の方言と能(謡曲)

クールジャパンのウソ!:売物ジャポニズムvs見えざる日本の美/純丘曜彰 教授博士 INSIGHT NOW! / 2019年7月9日
著者の正式名は、スミオカ・ジョルジュ・テルアキ氏、らしい。教授博士は、ドイツ語のヘルンプロフェソルではなく、英語のユニバーシティ・プロフェッサー・ドクターらしい。
主題は、マンガ・アニメは残念ながらそれほどパワーが無い、と言うところから始まって、明治初頭の武士が所有していた美術工芸品の輸出(人気が出なかった)、と来て歌舞伎も浮世絵もだめで、、、

能楽と茶道の再生
英国外交官サトー(アーネスト・サトウ、1843~1929)は、1862年に着任して以来、日本文化の理解に勉めた。なかでも彼が感心を持ったのは、能であり、頻繁に上演に通い、数々の謡(うたい)本を集めた。これに続いて73年にお雇い外国人として招聘された国際的英国人チェンバレン(1850~1935)は、海軍兵学校で英語を教える一方、日本語、特に詩歌を本格的に研究し、サトーから謡本を譲り受けている。さらに、77年に開校した旧東京大学のモースやフェノッローザも、能に深い関心を寄せ、ともに梅若実の弟子となって、みずから謡や仕舞を稽古している。

しかし、明治前半において、能は、日本画と同じような状況にあった。室町から戦国にかけての武将の能趣味を承け、幕府は、能を正規の式楽とした。武断から文治への転換の必要性、そして、参勤交代と並ぶ大名消耗策として、各家中もまた能楽師を抱え、これを嗜み、その面や衣装、上演に財を費やした。だが、この支援体制は、維新とともに瓦解。能楽師たちの多くが路頭に迷うところとなった。

とはいえ、能には、浮世絵に似た一面もあった。庶民は実際の上演を見ることはかなわなかったが、多くの寺子屋などで、その謡本が教科書とされていた。能は、名所旧跡に因んだものが多く、また、源氏物語などの古典から主だったエピソードを採り上げていた。それゆえ、歴史や地理、文学を初学者が学ぶのに最適の教材だった。つまり、庶民は、旅をしたことがなく、また、原本を読んだことがなくとも、能の謡本で教養として多くの知識を身につけていたのであり、謡そのものも暗唱できた。

他の家中との交流を断つことは、江戸幕府の重要な政策のひとつであり、数百年に及ぶこの分断政策によって、他の地方とは会話が成り立たないほど、方言がひどくなっていた。ところが、能の謡だけは全国共通であり、古く室町に遡る奇妙な謡言葉(「候文」)を用いることによって、遠方に書簡を送ることもできた。各地の下級武士が連絡を取り、集って倒幕運動が可能になったのも、この謡文化の全国共通性があればこそ。彼らが打ち立てた明治政府もまた、謡文化を引き継いでおり、能の上演そのものは途絶えても、その謡だけは、庶民から政治家まで、日本人としての共通文化であり続けた。

(太線はQuiver)